コラム
宣教師が翻訳した和歌―キリシタン版『日葡辞書』と幕末のフュレ神父―
岸本恵実
大阪大学大学院人文学研究科教授
本拠点兼任教員
日本におけるキリスト教の歴史は、戦国時代から江戸時代にかけてと、幕末以降とに、大きく二分できます。このコラムでは、日本の代表的な韻文である五七五七七の和歌が、江戸時代初めにポルトガル語で、幕末にフランス語で、カトリック宣教師たちにより翻訳されたことを紹介します。
宣教師たちは日本語を学び、日本文学について深い知識を得た人々もいましたが、本来の目的は宣教でしたから、自分たちの言語に翻訳したものは多くありません。それでも、日本文学の翻訳が本格化する明治時代以前に、宣教師たちがこうした翻訳を残しているのは興味深い事実です。
『日葡辞書』の中の和歌
キリシタン時代、文学作品といえば、宣教師用の教科書として平家物語を話し言葉にあらためた『天草版平家物語』(1592年刊)が知られています。この中に和歌の引用はあるものの、宣教師たちの日常語であったポルトガル語の翻訳はありません。今日残っている、ヨーロッパの言語による和歌の翻訳としておそらく最も古いのは、『日葡辞書』(本編1603年・補遺1604年刊)中の3首でしょう。『日葡辞書』は複数のイエズス会士により、3万3千以上の日本語にポルトガル語の語釈がつけられたものですが、用例も多く収めています。和歌もその一つだったわけです。ここでは、「いとど」の見出しに引用された1首を紹介します。
Itodoxiqu suguinixi catano coixiqini,
Vrayamaxiqumo cayeru nami cana!
〔いとどしく過ぎにし方の恋しきに,
羨しくも返る波かな〕
Tẽdo grãdes saudades do Miyaco, & do que deixo atras, vẽdo estas ondas que chegão à praya, & se tornão, ò que saudades, & magoa terei vendo que não posso tornar.
〔都(Miyaco)やあとに残して来たものが恋しくてならないのに,浜辺に寄せては返すこの波を見ると,自分は帰ることができないことを考えて,なんと恋しくまた悲しいことであろう〕※queは、原文の活字ではqの上に~
アルファベットの日本語とポルトガル語が『日葡辞書』の原文、〔 〕が『邦訳日葡辞書』(1980年、岩波書店)による翻字と現代語訳です。日本語のつづりは、「し」をxiとするなどポルトガル語式になっています。
上の和歌は『伊勢物語』第七段や謡曲「杜若」などに見え、在原業平と想定される男が、都(京都)から東国へ下るさい詠んだとされるものですが、ポルトガル語訳はその背景を補って訳しています。『日葡辞書』の後まもなく刊行されたジョアン・ロドリゲスの大著『日本大文典』(1604-1608年刊)にも、日本の韻文として、漢詩・和歌・連歌の詳しい説明があります。『日葡辞書』や『日本大文典』の記述は、宣教師たちが和歌に詳しい日本人から教えを受けていたことをうかがわせます。
フュレの百人一首フランス語訳
『日葡辞書』刊行から約10年後、江戸幕府による厳しい禁教政策が始まりました。江戸時代の間、日本文学の情報を海外に提供したのは主に来日オランダ人たちでした。宣教師たちが再びその役割を担うようになったのは、19世紀半ばのことです。
そのため時代は『日葡辞書』から200年以上下りますが、次に紹介するのは、パリ外国宣教会の神父の一人、ルイ・テオドール・フュレによる百人一首のフランス語訳です。現在パリ外国宣教会本部の文書室にあるこの草稿は、全く知られていなかったわけではないのですが、本格的な研究はまだありませんので、今後別のところで詳しく紹介する予定です。
パリ外国宣教会から派遣された宣教師たちは1844年以降、琉球に到着しましたが、日本入国がなかなか認められず、那覇にとどめおかれました。フュレも琉球滞在を余儀なくされた一人です。フュレの草稿はいつ何のために書かれたものか記されていませんが、琉球到着の1855年から長崎に渡った1863年までの間に作成されたものと考えられます。琉球滞在中琉球国の派遣した教師から日本語を学習していた記録があることと、長崎到着後はこのような草稿を作成する余裕がなかったと思われるためです。
フュレの百人一首訳は、上記画像のようにノートに1~100の順に、よみ手の名とフランス語訳が書かれています。歌のよみ方は記されていませんが、人名や地名などの固有名詞がフランス語式のつづりで書かれています。ここでは、7番目の安倍仲麿(百人一首では伝統的に、「仲麻呂」でなく「仲麿」と書きます)の歌、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」〔大空を仰ぐと見えるあの月は、奈良の春日にある三笠山に出ていたのと同じ月であるのだな〕を引用します。
Abèno Nacamaro.
7. Quand je considère l’immensité du ciel (mer),
Sur la montagne Micaça (aux 3 chapeaux) située
à Casega (près de Nara ancienne capitale du royaume de
yamato) cette lune a-t-elle passé aussi?
(cet homme étudiait en Chine et en voyant
la lune, il pensait à son pays.).
〔安倍仲麿
7. 私が空(海)の広大さを考えているとき、
(大和王国の古い都、奈良の近くの)春日にある三笠の(三つの帽子の)山の上を、
この月も通過しただろうか?
(この人は中国に留学していて、月を見ながら、自分の国を思っていた。)〕
上がフュレの草稿、下がその翻刻と現代日本語訳です。原文の( )の箇所は、フュレが教師から聞いた解説を翻訳したものでしょう。Micaça には書き直しのあとがありますが、Casegaはカセガと聞き間違ったままになったのでしょうか。この草稿中、このような間違いは少なくありません。
近い時期の百人一首フランス語訳といえば、フランスの東洋学者、日本研究者として知られるレオン・ド・ロニ―のものがあります。日本の詩歌のアンソロジーである『詩歌撰葉』(1871年刊)の中に、百人一首からの抜粋とそのフランス語訳があるのです。ロニーはフュレと交流があったことがわかっていますが、ロニーはフュレ訳を参照したようではありません。なぜなら以下のように、ロニー訳はフュレとかなり異なっているためです。
SUR la voûte céleste, en ce moment ou(`) j’élève mon regard, n’est-ce pas au-dessus de la montagne de Mikasa du pays de Kasouga que la lune se lève?
〔今私が見上げる天空の上、月が昇るのは、春日の国の三笠の山の上ではないか〕
とはいえ、パリ外国宣教会の宣教師たちがフランス東洋学のネットワークとどのように関わっていたかは、今後の解明に待つところが多いようです。
日本語を習得し、キリスト教を伝えようと苦心していた宣教師たちには、和歌の意味を汲み取り、翻訳することの困難さも理解できただろうと想像します。また、翻訳者としてだけでなく、この「天の原」の和歌は、母国を長く離れていた宣教師たちにとって、仲麿の望郷の思いに深く共感できる歌だったかもしれません。